「知床硫黄山1562mの昔話」

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                     知床硫黄山 1,562m の昔話                       辻井泰輔


知床硫黄山羅臼町斜里町にまたがる活火山である。一等三角点に指定されているが何故かしら山頂部は斜里町に属している。現地では硫黄山(イワウヌプリ)と呼ばれているが、近隣の弟子屈町にも硫黄山アトサヌプリ)があるので、区別するために知床硫黄山と呼ばれている。自然環境が過酷なこともあり、山麓には集落はなく、海岸線にわずかな番屋、カムイワッカ湯の観光地があるのみである。なお知床半島は 2005 年に世界遺産に登録された。


□硫黄山の主な歴史
・1859 年会津藩によって硫黄採掘事業が試みられる
・1876 年皆月善六が採掘の出願し、皆月家が昭和前期まで採掘権を保持する
・1857 年、1858 年、1876 年、1889 年、1890 年、1935 年(昭和 10 年)に噴火した。

 

□硫黄山を開拓した皆月善六(みなつき ぜんろく)
皆川善六は石川県輪島の出身で北海道と大阪を結ぶ北前船の船頭を務めていた。明治 6
年、日本郵船の船長をしていた時、知床岬を航行中、知床連山に煙が上がっているのを目にし、あの煙は硫黄だと野心に燃えた善六は翌年春、横浜港に寄港すると同時に日本郵船を退職して函館に帰来する。明治 7 年、雪解けを待ってから人跡未踏の知床連山に挑み、硫黄山を発見して開鉱に着手する。翌 8 年の秋までに落石や熊に怯えながら開鉱から海岸までの荷下ろしの道をつけ、9 年には、一部の硫黄を函館まで運ぶという前途多難な事業経営が始まる。
 冬季は仕事ができず、5 月から 10 月までの6ヶ月間の仕事であったが事業は成功した。明治 17 年には、巨額の利を得て函館三大紀文(紀文=富豪・紀伊国屋文左衛門の通称)の一人と言われるようになる。しかし善六が巨万の富を手にした陰には、悲壮な物語があった。硫黄鉱山には飲料水が皆無の状態で、食料や野菜がないため、抗夫が病に倒れ、むくみ病がまん延し,罹病者が続出し、ついには死病者が出るなど大勢の犠牲者が出た。明治 27 年、事業経営の陰で犠牲になった従業員の供養と菩提を弔うために、斜里村に皆月寺(現・西念寺)を建立した。明治 29 年 12 月、善六は一線から退き隠居生活に入り、息子に二代目善六を継がせた。明治 37 年 2 月 17 日、波乱に富んだ生涯を閉じた。享年 73歳であった。
硫黄は火薬、医薬品、農薬、漂白剤などの原料として現在でも使用されている。

 

□豆知識:ダウンと化繊綿のジャケットの使い分け
・ダウン⇒多くの空気を含むことで軽くてコンパクトで保温性が保たれ寒い時期には適している。濡れるとペシャンコになり保温性が落ちる。値段が高いほど保温性に
優れている。
・化繊綿⇒保温性はダウンより劣るが撥水性で濡れても乾きやすい、蒸気が抜けやすく蒸れにくい。雨や汗で濡れる可能性の高い行動時に安心して着用できる。R2.10 記