「山の神とオコゼ(虎魚)」

🔷たいすけのよもやま話

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山の神とオコゼ(虎魚)                辻井泰輔

若し我々の仲間のパーテイが山で重大な事故を起こしたとする。普段は神仏を信じていなくても気づかないうちに困った時の神頼みで仲間の無事を神に祈る。だが祈る前に仲間の生死は確定している。だとすれば祈りはムダにならないだろうかと思うことがある。仲間が無事だったらなら祈ったお陰であると思い、無事でなかったら祈りが足りなかったせいと思う。   我々は自然環境のことも考え「山を畏れ敬う」心が自分を謙虚にしている。山には霊的な力をあると信じられ、自分を律している。山の神には様々な神がある。山の神が女神であるという伝承は割合に多く、妻女を山の神と俗に呼ぶのもこの伝承によるといわれている。自分の妻の話をするとき、比較的多いのが、「うちのカミさんが・・・」と話すひとだ。古来、日本ではあらゆるものに神が宿ると考えられ、その中に「山の神」がいた。山というのは、普段は静かで穏やかであるが、いったん天候が荒れると、土砂崩れや川の氾濫をもたらす恐ろしいものである。山の神は女神とされているが、機嫌が良ければ優しいが、いちど機嫌が損ねると、夫も太刀打ちできない恐妻になる。そんな妻を山の神に見立て、また口やかましい妻のことを、ちょっぴり皮肉も交えてへりくだって「カミさん」というようになったようである。                

ここに昔話がある。

『昔、作物がよく採れる豊かな農村があり、これも山の神様のおかげと考えていた。神様は山の祠に住んでいて、恥ずかしがり屋の女の神様であった。山の神様は秋の収穫が終わると近くの山を守り、春になると里に出て田の神になるのでした。ある年の田植えが済んだ頃、神様が田んぼの見回りをしている際に、はじめて小川に映る自分の顔を目にした。それはあまりにも醜い顔だったので、恥ずかしくなって山へ逃げていってしまった。すると、神様がいなくなった里の苗は枯れ始め、畑は荒れるし山の大も大きく育たなくなった。困った村人たちは「山の神様よりももっと醜い顔をしたものをお供えしてみよう」って事になり、オコゼという体型がグロテスクな魚を持って山の祠に行った。オコゼを見た山の神様は自分より可笑しな顔があったことを知って、機嫌を直して村へおりてきてくれた。それからというもの、山の神と村人たちはいつまでも仲良く暮らした。』

本州のある地域では山奥で木を伐採したが川の水量が少なくて運べなかったとき、オコゼを奉ずると大雨が降って運べるようになったという。また猟師が懐にオコゼを隠し持ち、「これを差し上げるのでイノシシを出してほしい」と願うとイノシシが獲れるという。山の神は女神で容貌が良くなくないので嫉妬深く、自分より美しい女人が山に入るのを好まないという。だとしたら、我々の山岳会は美女揃いなので心配だ。それゆえ、山男にはオコゼの甘露煮を隠し持って山に入ることをお勧めする。そうすると安心して山に登って帰って来られる。

ホントの話である。                          2021.2記