《たいすけ》の「山よもやま話」(2019-11号会報掲載)

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薩摩(さつまの)守(かみ)忠度(ただのり)

                                                                                                                   辻井泰輔

平家の武将・薩摩守忠度(ただのり)は平清盛の末弟で、文武に秀でていて将に平家の「一門の花」であった。世間一般に忠度を「ただ乗り」にもじって乗り物に無賃で乗ること。またその人を言う。転じて登山用語で、ミーテングに参加しないで直接山行に加わる人を言う(ただ乗り山行)。 薩摩守は官職名で薩摩の国を治める長官で、いまで言う知事のような官位である。

狂言の曲名で「出家狂言」というのがある。因みに狂言とは日本の古典芸能の一つで、猿楽(こっけいな言葉芸)の滑稽な物まねの要素が洗練されて、室町時代に成立したせりふ劇を言う。

この曲名は僧侶が主人公の狂言を言う。あるとき住吉(大阪府)の天王寺参詣を志す僧が、摂津の国の神崎渡し場の近くまで来る。茶屋で休息し、代金を払わずに出で行こうとし、亭主にとがめられるが、真実無一文と知って亭主は同情し、この先の神崎の渡し守は秀句(洒落)が好きなので、舟にただ乗りできる秀句を教えようと言い、まず「平家の公達」と言って、その心はと問われたら「薩摩守忠度」と答えよと知恵を授ける。さて、舟に乗り舟賃を要求された僧は、教えられたとおり「平家の公達」といい、秀句らしいと気づいた渡し守は「その心は」と喜んで問うと、「薩摩守」まで答えたが、「忠度」を忘れて苦し紛れに「青海苔の引き干し」と答えて叱責され失敗する。

 

忠度はその後、神戸は須磨の一の谷で源義経の軍と戦い奮戦するも、源氏方の武将・岡田忠澄に腕を切り落とされて観念し、静かに念仏を唱えながら首を討たれたと言われている。享年41歳であった。忠度は、名を名乗らずに打たれたが、箙(えびら。矢を入れて背におう道具)に結びつけていた短冊に書かれていた短歌から忠度であることが判った。

 

「行き暮れて木の下蔭を宿せば花や今夜のあるじならまし」

 

訳; 旅をゆくうちに日が暮れてしまいそうだ。桜の木陰を宿とすれば、花が今夜の主ということになろう。→人生ここまで駆けぬいてきたが、ついに死を迎える時が来た。桜の木陰で宿をとるなら今宵の桜が宿の主であろう。

 

神戸市長田区に忠度胴塚という胴塚があるが、岡部忠澄は、忠度の菩提を弔うため、自分の領地の中のもっとも景色の良いところに「平忠度供養塔」を建てた。現在、埼玉県深谷市の指定文化財となっている。